20代のころ、1人でシロ40本頼んでしまって「うえっぷ」ってなりながらなんとか完食したteckingです。シロこわい。
ということで『秋吉 Advent Calendar 2015』の8日目。完全に外野モードでみなさんのブログ読むことだけに徹しようとしてたところ、まったく何の考えもなしで放流した
@tecking 秋吉アドベントカレンダー、今日の分空いてますよw
— るっちん (@luchino__) December 8, 2015
ツイートに @luchino__ さんが反応してくれたので、それは書かなきゃだわってもんで急遽エントリーした次第でございます。
といっても、タイトルですべてを言い切っていてこれ以上書くことがないw
「秋吉」って苗字っぽくて創業者の名前から名付けたように思えて、小中学校の同級生だった秋吉くんの家業が『秋吉』だと勝手に認識してたんですが、卒業後10年ほどたって秋吉くんの家は牛乳屋さんだったというオチをくらった過去もありました。
で、『秋吉』の創業者は島川丈男さんとおっしゃいまして、1959年に福井大仏の近くで店をオープン。その後、1966年に福井市の飲み屋街・片町(旧店舗)に移転して、さらに2015年3月には100mほど南に移転オープンして今に至ってます。現在は、創業者の甥である片岡常男さんが社長を務められています。
初代・島川丈男さんの奮闘記は、著書『夜逃げからの出発』(ゴマブックス)に詳しいので、興味ある方はぜひどうぞ(読んでないけど……)読みました。
[2016.1.5追記]
その後、くだんの『夜逃げからの出発』を読む機会がありまして、「!!!!!」となる事実がわかりました。
- 秋吉の「吉」は「吉」じゃなくて「𠮷」(つちよし〔牛丼の店のアレ〕)だった
- 店名の由来は、かつて初代社長が働いてて、しかもつぶれた店の店名だった
(ちょっと長くなりますが引用)
私は戦後すぐ、一五歳のとき、福井駅前の大衆食堂で板前の年季奉公を始めた。あのころの年季奉公は一〇年間無給で働けば、その後、小さな店を持たせてやるというものだった。私はその日がくるのを楽しみに必死で働いていた。
そしてあと三ヵ月で年季が明けるというとき、私のために一〇年間ちゃんと貯金してあるという主人の言葉を信じて福井銀行駅前支店に行き、預金を確かめたところ、そんなもの一銭もないことがわかった。私は絶望のあまり翌朝店を飛び出してしまった。結局、一〇年間タダ働きしたことになる。
その時、出入りの魚屋が、板前さんを探しているという旅館のおかみさんを紹介してくれた。その人の旦那さんは市役所に勤めているからその名まえは出せないので、あんたの名まえで営業許可や保健所の許可を取ってくれという。このことで後に債務を負うはめになるのだが、このときは私も甘く、こちらはたんに雇われの板前と気軽に考えていた。
この店の名前が「秋𠮷」で、オーナーから「秋𠮷」か「春吉」好きなほうを選べといわれ、実りの秋というから「秋𠮷」にしようと決めたものだ。春吉も秋𠮷も水商売向きの字画でかならず成功する名だ、ということだったが、この店が一年二ヵ月後につぶれた。
(島川丈男『夜逃げからの出発』 p.14~p.15)
この本ですね、
- なぜやきとりを5本単位で出すのか
- 秋𠮷が備長炭を使わない理由
- なぜ一串20グラムなのか
- 「社長」と「お嬢さん」の誕生秘話
- 店内のレイアウトを車座にする理由
といった秋𠮷好きをくすぐる蘊蓄から
- 小さくても融通のきく銀行とつき合え
- 零細企業であればあるほど、給料は多めに
- 土地を買うなら“人のイヤがる土地”を
- 塩の振り方でやる気のあるなしがわかる
- 数字を目標にしすぎると、どこかで手を抜こうと考える
というマネジメント論、さらには「賭け事から足を洗おうと、最後に遊び仲間と2人で1000万円握って三国競艇に行き、きれいさっぱりなくなった話」まで、読みものとしてかなり面白い内容でした。
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