以前から気になる脚本家の一人だった、金子ありささんの講演会が2011年11月4日に響のホール(福井市)で開かれるというので、募集開始早々にサクッと応募して聴講してきました。『美少女H2』の頃から気になってた脚本家なので、応募しないわけにはいきますまい。
講演の前段で分かったのが、こうした講演というのは金子さんにとって初めての経験だということ。しかも、福井県を訪れるのも初めて。映画『7月24日通りのクリスマス』に感動した主催者(まちづくり福井)の担当さんが金子さんサイドに呼びかけて実現した企画だそうです。すばらしい。
心の持ちようで毎日がドラマになる
1996年の脚本家デビュー以来、日常生活のちょっとしたことに心を奪われたり目がとまったりする感度がぐっと高まった、という金子さん。ある日、近所の自転車置場に〈サドルの上にハンカチがのった自転車〉があるのを見て、好きな子のことを想う高校生の気持ちを空想して、そこからむくむくとストーリーが広がっていった――なんてこともあったとか。
(ちなみに、このエピソードは『がんばっていきまっしょい』のワンシーンになったという話)
脚本家の仕事をしていると「どのようにストーリーを思いつくのですか?」と訊かれることも多いそうですが、ドラマのヒントは暮らしの中にいっぱい転がっているので、そこから「何か面白い話を作れないかな?」と空想を広げては、と呼びかけていました。
ドラマは〈冒険〉
また、日本大学芸術学部在学中に教わったこととして金子さんが紹介したのが「ドラマは〈冒険〉。どんなドラマも、主人公が勇気をもって一歩を踏み出すことからストーリーが始まる」との一言。なるほど。ハッピーエンド/バッドエンドは別として、主人公の「何かを変えよう(変えたい)」という動機がストーリーをまわしていく原動力になっているのはたしかですね。
映画をほとんど観なかったのに大学の映画学科へ
子どもの頃、弟が買ってくる週刊少年マンガ誌の〈ストーリーの続き〉を空想するのが好きだった金子さん。高校時代のある日、日本大学芸術学部映画学科の存在を知り「私にはここしかない!」と進学を志しました。映画などほとんど観ていないと知っていた家族はたいそう驚いたそうで、金子さんにとっても「受験の帰りに観た『ホット・ショット2』」が映画初体験といっていいくらいの出来事だったとか。
入学してみれば周りはいわゆる映画少年・少女ばかり。遅れをとりもどすべく金子さんがまずやったのは、作品賞・監督賞・外国語映画賞……とアカデミー賞各部門の受賞作を昔にさかのぼってかたっぱしから観ること。当時はDVDでなくビデオ全盛時代。自宅のある上野から恵比寿ガーデンプレイスのTSUTAYAに遠征し、10本ほど借りてリュックに詰めて帰る、というような学生生活を送ったそうです。
鼻っ柱を折られた『ナースのお仕事3』での経験
大学4年生のとき、卒業制作の一方で5本のシナリオを書き(このバイタリティもすごい)、その1本である『ときわ菜園の冬』が『フジテレビ ヤングシナリオ大賞』を受賞。流れにまかせるままテレビ業界に関わり始めたものの、20代前半の頃はまだまだ映画志向が強く、打ち合わせで「月9みたいなドラマ好きじゃないんですよね」なんてことを言って場を凍り付かせることもあったとか。
そんな金子さんが「鼻っ柱折られた」のが『ナースのお仕事3』の脚本執筆。「単にドタバタしてるだけのドラマ」という認識で打ち合わせに臨んだ金子さんはプロデューサーにまず、こう言われたそうです。
僕たちはドラマじゃなくて〈テレビ番組〉を作るんです
どういうことかというと、テレビ番組には視聴者を飽きさせないための一定のフォーマットがあるということです。『ナースのお仕事』シリーズでも同じで、
- コミカルな動きや台詞まわしのイントロダクション
- 恋愛の要素や、働くことの面白さ・魅力を伝えるエピソード
- 命の大切さを伝えるエピソード
が15分きざみくらいで展開するフォーマットになっているとか。
それまで『ナースのお仕事』シリーズを「ただのドタバタドラマ」と思っていた25歳の金子さんは、緻密に組み立てられていたプロの仕事に感服。医療もののドラマや本などをむさぼることも厭わず、この業界に〈就職〉することを決意したということでした。
まとめ
初めての講演+初めての福井ツアーということで、家族と一緒に当地にいらっしゃった金子さん。息つく間もなく翌朝には、現在執筆中のドラマの打ち合わせが控えている多忙ぶりでした(プロデューサーがわざわざ福井まで来るという追いかけられぶり……)。
いわく「常に追い立てられながら」の脚本家生活ではあるものの、「物づくりで結ばれる友情があって、世代を超えた戦友が増えていく」ことがこの仕事の魅力だということを語っていました。
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